持つものと持たざる者

凡人が見ている世界と、天才が見ている世界は違う。
世界は同じでも、その見え方が違う。

昨日の記事では、麻薬こそが2つの世界を繋ぐ鍵ではないか、と語った。
富んでいる者と乏しい者、知る者と知らざる者、有能な者と無能な者。
持つ者と持たざる者とでは、認識が違っている。

そういった意味で、この世界は多層的なのだ。
同じ本質でも、観測する者によって違う性質を見せる。

なぜ違うのか、どちらの認識が本来の姿なのかはわからない。
ただ、違うのだという現実が、厳然として存在している。

持ち合わせていないことは、悲観すべき事ではない。

私たちは生まれたあとから、言語や知恵を獲得する。
持たざる者として生まれても、獲得すればよい。
獲得することで、認識もまた変わっていく。
小さい頃、自転車の乗り方を覚えて行動範囲が広がったときのように、
ほんのささいなきっかけで認識は変わるのだ。

真に恥じるべきは持たざる者ではなく、望まぬ者。

より多くを獲得しようという欲のない者である。

欲のない者は成長しない。
獲得しようとせず、何事においても最善を尽くさなくなった知恵は錆びつく。
それは人間としての死を意味する。
人間は知恵を働かせるからこそ人間なのであり、
思考しない人間など、ただのヒト科の動物でしかない。

人間としての個性・価値は思考の末に生まれる。
『人間』と『ヒト』、2つの呼称の間には、実質上の隔たりがある。
幸か不幸か、どちらとして生きるかは、個人の自由判断に委ねられている。
……と。このように根拠が弱いことでも、断定する口調で記述すると説得力が増します。
日常のひとコマで、ぜひ活用しましょうね!


終わりや終わり! 終了!!

書いた人: 久世うりう (kuzeuriu) お問い合わせ


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