死を迎えることは、救済であります。
ただし、死が救うのは、生きている者のみ。
死が、生きていない者を救済することはありません。
死による救済を受けるには、生きる必要があります。
では、生きることとは、何でしょうか。
どのような条件を満たせば、
生きていると言えるのでしょうか。
まず、結論から提示するならば、
生きることとは「役割を果たすこと」だと考えられます。
演繹的に、他者から死を惜しまれることこそ
生きていたことの意味が認められる瞬間だと考えます。
今回、「居る」や「在る」ではなく
「生きる」という表現を用いているように、
物質として存在していることよりも
生命として活動すること、その意味を重視しています。
死んだことを喜ばれるのも
反響を生んでいることに違いはなく、
以上は生きていた意味があると言えますが、
そのケースを想定すること自体がある意味哀しいことですし、
あえて嫌われ役を買っていく必要もありません。
今回は惜しまれることに限定して考えましょう。
たとえば、犬や猫などの動物であれば、
「愛玩動物」という役割を果たしていれば、
その死は惜しまれるでしょう。
同様に、人間においても、
「他者から期待される役割を果たすこと」で、
その死は惜しまれることになります。
家族が死を惜しむのは、
「家族」という役割を果たしていたからです。
また、極端にスケールを大きくして考えると、
世界中から死を惜しまれるような人というのは、
やはり世界から期待されるような役割を担っていたのです。
ここで考えるべきなのは、
「何について期待されるか」という点は、
必ずしも他者によってもたらされるものではないということです。
自作自演やマッチポンプと言うと聞こえが悪いですが、
能動的に、自分で作り出した役割を、自分で果たしても良いのです。
自分で役割を作るのが難しいのか、
他者から与えられた役割を果たすのが難しいのか。
どちらに適しているのかは人それぞれだと思いますが、
いずれにせよ、今の自分がどんな役割に沿って行動しているのかは
常に意識しておく必要があると思います。
終わりや終わり! 終了!!
書いた人: 久世うりう (kuzeuriu) お問い合わせ
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