まず、結論を先に伝えておきたいと思う。
私と、私の愛する妹ー―最も血は繋がっていないけれども――は後数時間後には、この世からいなくなる。
世間一般で言えば、心中ということになるのだろう。叶わぬ、悲劇的な恋愛の結末と人は言うかもしれないけれど、その実、これから死にゆく私達にとって、それは幸福であった。
何故ならば、共に迎える死の先にこそ私達の永遠はある、そう信じてやまないからだ。
であるからして、宵闇にてエスを待つこの時に、しばし想い出に浸りたいと思う。
強い人になりたいと願っていた。
私はどうやら感じ方、捉え方と言ったものが人と違うようで、例えば、恋愛に於いても、私はどうにも同性であることと異性であることの差がわからず、学友達とのずれを感じるのである。愛を育むという一点に於いて、一体どれほどの違いがあるのかを私は見出せぬけれど、女は子を産み育てるという絶対的な価値観が社会に根付いている以上、これは悪と断ずるべきなのであろう。
更に言うなら、女は働かぬというのもおかしな話だ。性別や肉体的な差異はともかくとして、私達は根本的に同じなのだから、そこに平等というものがなければ嘘になる。しかし、世間では女子というだけで、可能性が狭まり、身分によって人生は決まってしまう。このように世の中というものは大変生きにくいものであるから、私は角が立たぬ様、周りと似た仮面を被って過ごしていた。
だからこそ、自分を曲げず、世間を生き抜いていくような、そんな者に憧れていたのだけれど、その様な茨の道を行くには己というものがあまりにも弱く、到底成し得ぬであろうというのもまた克明にわかっていたのである。
とはいえ、傍から見た私はとてもそんな風に見えなかっただろう。学友もおり、家族の仲も良好で、勉強も運動も他と比べて良い成績を収めていた為だ。
女学校というのは狭い世界であるからして、どちらかというと目立ちがちな私の周りでは吉凶を問わず自然と多くの人が集まる。けれどそれが反って辛い事のように思えて、心の内では何の解決にもならない嘆息を繰り返していたのである。
学び舎で学友と過ごす時間は私にとってかけがえのないものであったけれども、本心を語る友がいないというもどかしさもあり、どこか胸に穴が開いているような、そんな心持ちになるのだった。
そんな憂鬱とも幸福ともつかぬ日々を過ごしていた折、突如として、私の運命を一変させるような出来事が訪れる。
あれは忘れもしない入学式の日。非常に恐れ多いことであるが、私は新入生への歓迎の挨拶という大役を任されていた。壇上に登ってふと目を見やると、まだ初々しく、表情を強張らせる新入生の中にあって、一人だけ無表情で、私を見つめる者がある。これといった特徴のない、普通ならば気にも留めぬような、そんな女生徒だった。
学び舎というものを特別嫌悪している風でもなければ、興味があるといった風でもない。空気の様に目立たぬその存在が反って異質に見えて、どうにも目を引いた。
というのも、私の夢想する強い人というものに、彼女はよく似ていた。あるがままを受け入れながらも、自らを貫いていくような、そんな気高さを彼女から感じ取ったのだ。
更に、何という運命のいたずらであろうか、その子は私と同じ名――私、彼女共にここではエスとしておく――を持っていたのである。
その様な偶然の一致に後押しされてか、ああ、もしかしたら、この子ならわかってくれるかもしれぬと、僅かばかりの期待に、私は胸の高鳴りを感じていた。
この学び舎にはシスタア――三度偶然ではあるが、これもまた『エス』と呼ばれている――という一風変わった、珍しい制度が存在する。上級生と下級生の間で結ぶ扶助制度の事だ。シスタアと言うくらいであるから、言ってみれば義理の姉妹になる様なもので、単なる先輩と後輩という関係性とは少しばかり意味が違ってくる。
その様な理由と自らの考えも相まって、私は入学してから今に至るまで、姉になる事も妹になる事もなく、最早忘れかけてさえいたのだけれど、彼女を見初めるに当たって、計らずともその存在を思い出したのである。
これは正に渡りに船、今の状況を打破する天啓のようなものであったから、私が彼女にエスの契りを持ち掛けるのもまた必然であるというべきだろう。
入学式から少し間を開け、私は彼女の居る教室へと向かっていた。ここで少しばかりの時間を置いたのは、まだ学校生活に慣れないであろう彼女に対する配慮と、入学してからの彼女の様子を観察する、打算的な側面もあった。
とはいえ、その心配は杞憂で、彼女は誰かと話し込む事もなく、常にある種の孤高を貫いていた。
1-3と書かれた教室のドアを開けると、いつもと同じ様に彼女が奥の席へと座っていたので、私は手近にいた女生徒を呼び、彼女に取り次いでもらう。
そうして少し時間を置いた後、彼女が歩いて私の方へと向かってくる。
「私に何か、御用でしょうか?」
そう不安がちに私へと問いかけた彼女は、やはりあの日見た時と寸分違わず、可憐なままであった。
私が、
「君を私の、妹のように可愛がりたい」
と、単刀直入に目的を告げると、
「きっと、人違いでは御座いませんか?」
合点のいかぬといった表情で彼女がそう返してくる。
「どうして、その様に思うのかな?」
今度は私がそう問うと、彼女は私を褒めた後に、自らを路傍の小石に例えて、卑下するのであった。
これはいけない。その鈴の音のように可憐な声で、仄かに紅がさした小ぶりな唇で、自らを貶める事などしてはならない。
探し人は彼女で間違いない事、自らを卑下しないでほしいという事を伝え、懐から褐色のリボンを取り出した。
「どうか、このリボンを結んでほしい。私が君の姉となったなら、私は君から笑顔を絶やさないと誓おう」
動悸が激しい。ああ、今私は彼女からどう見えているのだろう。私が精一杯の笑顔を浮かべて、リボンを差し出すと、暫くの逡巡の後、彼女はリボンを自らの髪へと結びつけた。
「……不束者ですが、よろしくお願いいたします」
幾分か気恥ずかしそうに彼女がそう言った。私は、彼女と同じ名前を持つ事を伝えて、ようやく、心の底からの笑みを浮かべることができたのである。
こうして、私と彼女はエスになったのだ。
私は可憐な者が好きだ。しかし、その中にも一本芯の通ったところがなければ、真の意味で美しくはない。
その観点から考えれば、私と同じ名を持つ妹は、可憐な存在だと、そう言えるだろう。
私達が姉妹となってしばらく、私が音頭を取るような形で、エスとの逢瀬を重ねていた。
放課の後に図書室で待ち合わせるのも、すっかり日常となっていた。
やはり私達は学び舎に通う学徒であるからして、勉学は避けては通れぬ物だ。それ故の図書室である。それに元来、エスは真面目な子であるらしく、勉学を教えるという時間が多くなった。
エスがあまりにも熱心に様々な事へ打ち込むので、せめてその一助になればと思い、私もつい指導や会話に熱が入ってしまう。
最も、上級であることの意地とでも言うべきか、涼しい顔をするように心掛けてはいるけれども。
私のその様なささやかな意地を知ってか知らずか、エスは御姉様、御姉様と子犬のように懐いてくるので、頬が緩むのを抑えるのに必死であった。
そんな時、決まって私は風になびくカアテンを見つめて、気を持ち直すのである。
「御姉様、申し訳ありません。御姉様も自分の勉強がありますのに」
今日も幾度かそんな事を繰り返し、逢瀬の時間も中盤に差しかかろうかという頃合いで、エスが申し訳なさそうに口を開いた。
「何も憚ることはない。私は君の姉なのだからね。私は姉として、好きで面倒を見ているんだよ」
「けれど私はして頂いてばかりで。私も御姉様にお返しがしたいのです……私に出来ることは限られていますけれど、何なりと仰ってください」
その言葉にまた私はとろけてしまいそうになる。全くどうしてこうも、君は健気で可憐らしいのか。
「お返しというなら、もう充分してもらっている。君とこうして共に在れるだけで、事実私は満足しているのだから。それに実際、私も為になっているんだ。こうしてよしなしごとにも一所懸命に励む君を見ていると、感づるところがあるのだよ」
私が微笑みながらそう告げると、エスは上目遣いで私を見つめた後、気恥ずかしそうに目を逸らした。
「御姉様はそうやって、いつも私に優しい言葉をかけてくださいます。私がこうも頑張れるのは、御姉様あってのことだと、確信しているのです」
「私も、今こうして笑顔でいられるのは君あっての事のように思うよ。悲しいかな、今までこの様に深く心を通わせる相手というのがいなかったものでね」
そう言って、私は指をエスの髪に絡ませる。上質な絹の様な、滑らかな触り心地だった。
「そんな、何を仰るのですか。御姉様ともあろう方が、そんな」
エスも為されるがままで会話を続けている。
「けれど今は、君がいる。ならそれでよいと、素直に思えるんだ」
いつの間にか――ともすれば、私は初めから心惹かれていたのかもしれないけれど――この様な何やら秘め事めいた行為を、私達は行うようになっていた。
互いに言い合うでもなく、指を絡ませたり、髪を撫でたりと、他から見れば、私達はシスタアというには少々行き過ぎているかもしれない。
「勉強は、ここで終わりにしようか」
私の遠回しな誘いに、エスはこくりと首を縦に動かして、熱っぽい視線を私に送ってくる。
「御姉様……」
私は髪を撫でるのをやめて、エスの綺麗な指先に私の指先をそっと触れ合わせる。そうして次にエスの視線を受け止めながら、お互いの存在を確かめ合うように、無言でしばし過ごすのだ。
次第に指は絡まっていき、やがては手の平がくっつくような形になった。こうしていると、まるで互いが溶け合うように感じて、何だか神聖な事のようにさえ思えてしまう。
姉妹の絆を育むことこそがいっとう大事なことなのだけれど、同時にそれだけではなく、雑念のようなものも沸いて出てきてしまう。
私の手の平を通して、この鼓動の高鳴りがエスに伝わっているやもしれない。そうであれば、少しばかり、恥ずかしい。そんなことを考えると、さらに鼓動が早くなるものだから、いよいよもってどうしようもなくなる。どうしようもないから、顔が朱に染まる。けれど不思議なことに、そんな時程、一層心が温かくなるのであった。
賢しいという事はともすれば愚かしい事やもしれない。考えないというのは、ある意味でとても賢いのだ。おおよそ人の一生というものは一筋縄ではいかないから、認識というものが反転することもままある。
物を知らなければ考えることはないし、考えなければ疑問を抱くことなく日々を過ごしていける。そうして大体、世の中というのはそういった人間を求めているものだ。
そういった意味では、私は幼いころから生きにくさ、というものを実感していた。人と違うことはこうも労苦を強いるものなのだと、その様に感じていたのである。
エスもそうであるかもしれない。あの子はとても純朴で、そして賢い子であるから。
シスタアになって以降、エスは徐々に変わっていった。無表情で、どこか淡々とした風がすっかり鳴りを潜めて、表情をころころと変えるようになった。その上で元から彼女が持ち得ていた思慮深さはそのままであるから、やはり同級の者の目にも留まる。この頃は、級友もちらほらとできはじめているようであった。
そんな中でも、私達の蜜月とも言うべき秘め事は続いていて、過不足のない充実した毎日を私達は送れていた。
けれど、世間はそうではない。
景気は悪くなり、農業が壊滅的な打撃を受け、農家では身売りや口減らしさえ行われていたという。
学び舎、というものは閉じているから、そう言った世の中の流れというものには些か鈍いきらいがあるのだけれど、生徒たち――世を生きる人々もそうであろう――皆一抹の不安を覚えていたのである。
私がエスとこうまでして深く繋がろうとするのも、そんな揺らぎの絶えぬ社会情勢に対する、不安によるところがあったのかもしれない。
勿論、私の想いは真実であり、そこに疑いの余地というものはないのだけれど、確かに与するところはないと断言はできないのだ。
エスもそう言った心持ちになっているようで、いつもの図書室にて、私にその思いを伝えてきた。
「もしかすれば、何らかの理由によって私達も離れ離れになるということがあるやもしれません。その事を思うと、心の臓が冷たくなって、凍えるような気持ちになるのです」
「ああ、君の不安はとても正しい。感じるべき、そして拭えない不安だと、私も思うよ」
私はそう言って、エスを抱きしめた。エスの不安を少しでも和らげてやりたかった。それに例え分かれる日が来るのだとしても、せめて今だけは、彼女を離したくはない。
抱きとめたエスの身体は、存外に柔らかく、クチナシのような、どこか甘酸っぱい香りがした。
「漠然としていて、一人では如何しようも無いことなので、口に出すことを憚りましたが……やはり、不安です」
やや震えた、か細い声でエスはそう言った。
私はといえば、今抱き締めているはずのエスの姿が、どうにも朧気で、霞のように消えてしまいそうにさえ思えた。
なので、そのままエスの顎に手を添え、つい顔を近づけてしまった。つまるところ、接吻、しようとしたのである。
「御、御姉様」
エスが私に対して慌てたように自制を呼び掛ける。私もはっとして、顎に添えた手を素早く引っ込めた。今、私は何をしようとしていた。
「すまない。強いてしまったね」
「いえ、いえ、違うのです。ただ驚いてしまった。それだけなのです」
エスは矢継ぎ早にそう言った。
「いや、いいんだ。君が正しい。私達の関係というのは心を通わせることこそが肝要なのだから」
私は取り繕うようにそう告げて、エスから少し距離を取った。
そうして、熱に浮かされたように、事に及びそうになってしまった自分を恥じた。
私の身勝手な情動のせいで、エスを傷つけてしまうような結果になっては元も子もない。
その日は、何だか気まずくなってしまって、その後すぐに別れた。家路においてもまだ、どこかぼうっとした、そんな心持ちであった。
明くる日、再びエスと図書室で会った私は、改めて謝る。
「まず、君に詫びなければならない。昨日はすまなかった。その、はっきり言うのは憚られるのだけれど、同意もなしにあのようなことをするのはよくなかったと思う。君を驚かせて、もしかすれば傷つけてしまったかもしれない」
「頭を上げてください。御姉様のその様なお姿を見ると、心苦しくなってしまいます。それに、驚いたのは確かにそうなのですが、嫌と言うことは決して、御座いません」
そのエスの言葉に私は幾分か救われたような気持ちになった。
「ありがとう」
私は一言礼を言うと、エスが昨日感じた不安に対して私なりの解釈を述べた。
世間と言うものは慌ただしく変化していて、非常に脆弱であり、二人の仲がいつ引き裂かれるともわからぬこと。そして、それを差し引いたとしても女子である以上はいつかどこかに嫁ぎ、子を産まねばならぬであろうこと。最後に私もまた不安を抱く者の一人であることを語ってエスを見つめる。そしてそのまま、告白じみた、私の正直な気持ちをエスに伝えた。
「しかし、私は君と過ごす今が、楽しく、かけがえがなく、永遠であってほしいとさえ思う。他の何者にも、君と私との関係を邪魔させたくはない。昨日は驚かせてしまったけれど、この気持ちに偽るところはないんだ」
私達の浸っていた蜜月とは違い、世間と言うものはとても過酷なものである。その事をよくよく承知していたからこそ、折角掴んだ幸せを私は手放したくはなかった。
エスも言葉少な目に、
「私も、その様に思います」
と嬉しそうな表情で返答したのだった。
こういった事柄を経て、益々仲が深まった私たちではあるものの、一方で、日々膨れていく不安によって、姉妹の触れ合いというのはどこか虚ろな、空虚さを孕んだものになっていた。
ささやかな秘め事も、差し迫る現実を打開する手段にはなり得ず、そうなるとよりよい方法を求めて図書館中の書物に当たるのは当然のことと言えた。
やがて、私達のこの逃避にも似た探索は、一つの帰結を迎える。それは即ち、死後の世界で会おうと、そういうことであった。
その答えに私達が行き着いたとき、私は最終確認のつもりで、エスに聞いた。
「憧れで、果たして人は死ぬのだろうか。もし、君がその立場であったら、どの様に考えるのかな」
流石に死という決断、それもエスを巻き込んでの決断はあまりに重いものであったから、この様な言葉がついポロリと出てきたのである。
「僭越ながら申し上げますと、憧れだけで人は死なぬのではないかと思うのです。それだけではなく、何かがなければ」
「というと。例えば、どの様な?」
「恋や愛に焦がれておりますと、他の些事が目に入らなくなるものでございます。そのようなものがあれば、或いは、あり得るやもしれません」
エスはそんな私の気持ちを見透かしたように、否、事実見透かしていたのかもしれないけれど、そう答えた。
それはともすれば愛を告げられたようなもので、この様な状況であるというのに、とうとう私は頬の緩みを押さえきれなくなってしまう。
「……とある文豪は愛しているという言葉を、月が綺麗ですねと訳したらしい。初めて見た時はどうにも回りくどいと思っていたのだけれど、 存外に悪くないものだね」
私も遠回しに返答する。
するとエスは上目遣いで私を見やり、
「御姉様でしたら。もしも御姉様でしたら、どの様な表現をなさるのですか?」
そう尋ねた。
「またお目にかかれる日まで、とそう言いたい。きっと何度でも会いたくなるだろうから。その時まで、想い出を胸に詰め込んで人は生きていくのだと思う。焦がれるとは、そういうことではないかな」
私はしばらくして、そう答える。それが一番正しいように思えたからだ。
最後にきてようやく、私達の関係は姉妹から、恋人へと変化したのである。
私が追憶に耽っていると、空がやがて白み始める。 もうすぐ夜はあけ、間もなくエスが訪れるだろう。 そうしたら私たちは手を繋いで、約束の場所へと向かうのだ。 私の、最後の言葉は決まっている。きっとエスも同じ文句を返すだろう。 別れの挨拶の様でいて、その実告白の様でさえある。溢れんばかりの愛を込めて、笑顔でこの言葉を送りたい。
また、お目にかかれる日まで。