白い雪が僅かに残る歩道。肺に溜め込んで吐いた息は、白く曇っていく。まだ肌寒い春先の朝、俺と同じように登校する制服姿の人たちを横目に、白線の横断歩道を渡る。
渡り終えてすぐに、車道を白い車が通った。雪解けたあとの泥混じりの水が跳ね、俺のズボンにたっぷりと染み込んでいった。溜息をもう一つ吐き、不幸だ、とひとりごちていると、目の前で、女子が派手に転んだのが見えた。
その転びようといったら、顔の方から、かなり豪快に、地面へと吸い込まれたように見えた。転んだ女子は地に伏したまま、なかなか動こうとはしない。まさかもう動かないのでは、と最悪の想像をしてしまい、声をかけずには、横を通り過ぎることさえできなかった。
「おい、大丈夫か」
何を置いてもまずは安否だ。救命救急においては、初動が肝心である。
「うう……へ、平気」
受け答えはしっかりしており、ようやく上げた顔にも、傷などはついていない。手のひらは痛々しくすりむいており、制服も泥水で汚れてはいるが、命に別状はないだろう。
ひとまずの安心を得たところで、もう一点、懸念していた事項の解決に移る。非常にデリケートなことなので、それとなく伝えようと試みる。
「よし、じゃあ早く立ち上がってくれ」
「え、なんで?」
怪訝な表情を見せる女子生徒。誘導失敗。ええい、ままよ。
「……下着、見えてるぞ」
一瞬だけきょとんとしたものの意図を把握したようで、女子生徒はすぐさま立ち上がり、スカートを押さえる素振りを見せた。
「……平気」
消え入りそうなほどにうつむいて表情を隠す女子生徒。あまり平気ではなさそうだった。
俺たちは、泥まみれで学校へと向かう。もちろん軽くはたき落としはしたが、その程度で落とせるほど、泥は俺たちに優しくなかった。
「学校着いたら着替えだね」
「そうだな」
「同じ学校だよね。一緒行こ?」
「ああ」
制服からわかる通り、女子生徒と俺は、同じ学校に通っている。俺から声をかけた手前、置き去りにしてさっさと先に行くのもどこか不親切……というか、端から見たら少し不審だと思うので、女子生徒の申し出を素直に受け入れることにした。まあ、泥まみれの男女が並んで歩いている光景も、不審といえば不審かもしれないが。
「君なんていうの? 私、稔川美乃里」
「池谷啓だ」
「おお、回文だねぇ」
「ほっとけ」
「えー、いいじゃん覚えやすくてー」
「まあそうなんだけど、よくからかわれたんだよな」
小さい頃のことではあるが、自分では変えようのないことでからかわれるのは、子供心に不条理を感じていた。というか『みのりかわみのり』という韻を踏んだような語感も、子供は面白がりそうなものだが。
「ありゃ、ほろ苦いね。そりゃゴメン」
「気にすんな」
「じゃあ気にしなーい」
稔川はにっかりと笑ってみせた。変に気を遣われるよりは、こちらの方が断然良い。
「あーあ、自転車乗れれば楽なのになぁ」
「乗ればいいだろ」
うちの学校は自転車通学が許可されているため、乗ろうと思えば乗れる。ただし、学校指定のヘルメットを着けることを強いられるので、髪が潰れたりするのが難点ではある。
「いや、乗れないんだよね」
ああ、そういうことか。通学どうこうの前に、自転車に乗れないのであれば仕方がない。このときの俺は、そう納得した。
「近所の公園で練習したな。止まれなくてゾウの遊具にぶつかったりして」
「あれ? それ、もしかして西町公園?」
「よくわかったな」
ゾウの遊具なんてキーワードだけじゃあ、なかなか絞り込めなさそうなものだが。
「私も近いよ、西町公園」
「マジか。全然気づかなかった」
同じ町内に住んでいれば町内会などで顔も合わせることもあるだろうが、俺は稔川のような女子を見た記憶がなかった。専ら男子と走り回っていたし、無理もないことではあるのだが。
「あー、高校上がってから引っ越してきたからね。東町から」
「そうか」
俺が薄情なわけではないようだった。
「いやーそれにしても奇遇だねぇ。そうだ、池谷君。一緒に登校しない?」
「してるだろ、今」
「いやいや、明日からも」
「マジで?」
「今日なんだか運が良いし」
「関係あるのかそれ」
「……返事は?」
「いいけどさ」
健全な男子生徒としては、女子生徒と登校する、しかもこれから毎朝、とあっては緊張もするし、自分に都合のいい妄想だって多少はしてしまうわけで。そんな俺の動揺をよそに、稔川はにっかりと笑ったのだった。
翌朝。待ち合わせの場所とした西町公園に、俺はいた。からかわれているのではないか、白昼夢でも見ていたのではないか、と稔川や俺自身を疑いつつも棒立ちで待っていると、稔川は姿を現した。
「ごめんごめん、お待たせー」
「大して待ってないよ」
実際のところ、体感時間について考えないのであれば、待った時間は三分にも満たない。
「よかったぁ。玄関のドア、鍵が壊れて開かなくなってさ」
「マジかよ」
窓から出てきたよ、あはは、なんて笑い飛ばす稔川であったが、俺は唖然としてしまった。
玄関のドアだぞ。家を守る大切な箇所だ。年季にもよるかもしれないが、そうそう壊れるようなものではない。
それに、高校に上がってから引っ越してきたというなら、住んで一年か二年程度の新築、あるいは少なくとも、メンテナンスされている住居だと考えられる。
「不幸だったな」
「いやいや、私は幸せだよ」
相も変わらずにっかりと笑んでみせる稔川だが、いや、そういうことではなくて。
本人が気にしていないなら良いかと思い直しつつ、学校へと向かい歩き始めたが、その過程でも苦難は続いた。
「うわっ、っと……ありがと」
走れば躓く。
「いだっ! なにこれ、枝?」
稔川歩けば棒に当たる。
「ああっ! 私のお弁当……」
稔川弁当の川流れ。ちなみに、木の枝が顔に当たったことに驚き、動いた拍子に、多少開いていたスクールバッグから弁当箱が飛び出し、ちょうど道路脇の小川へと没する、という信じられない流れだった。
このように、俺の目の前で、小さな不幸が立て続けに稔川を襲ったのだった。
自転車に乗れない、という言葉の意味を、遅れて理解したような気がした。おそらくはチェーンが切れるか、タイヤがパンクするだろう。
稔川は不幸だった。俺よりも、圧倒的に、驚くほどに不幸だった。俺は不幸だとことあるごとに嘆いていたのが、恥ずかしくなるような不幸っぷりだった。不幸に人格があるとしたら、非常に熱烈で、力強いアピールだった。
弁当が沈む様を目の当たりにしてしまった俺は、思わず、稔川を昼食に誘っていた。
廊下で別れて自分の席に座ってから、なかなかに思い切ったことをしたのだということに思い当たり、一人で悶えていた。
昼休みになり廊下へ出ると、ちょうど出てきたらしい稔川と行き合った。昼食を調達するべく、俺達は購買へと向かう。
「初めてだよー、購買」
購買では、文房具の他に、サンドイッチや惣菜パン、パック飲料といった飲食物、あるいは菓子類を販売している。
俺は普段通りにカツサンドとカレーパンにコーヒー牛乳を、稔川はあちこち見て迷いに迷った末、たまごサンドとあんパン、いちごミルクを選んだようだった。
併設されていた食堂の名残で、イートインとまでは言わないまでも、買ってすぐに食べられるスペースがある。俺達は壁際のテーブルを選び、腰を下ろした。
「選ぶの早かったねぇ、池谷君」
「ああ、いつもここで買ってるからな」
親が弁当を渡そうとしてくるのだが、俺は受け取らず、断っている。理由は一つ。恥ずかしいからだ。
「えっ、いつも?」
たまごサンドの封を開けた稔川は、軽く驚いてみせた。それに生返事で肯くと、稔川は続けて言った。
「お弁当、ご馳走しよっか。私、いつも自分で作ってるし」
甘めの卵焼きが自信作なんだよねぇ、と、誇らしげに、力強く胸を叩いてみせる稔川。確かに、小川に流れた弁当の中身は、少し興味がある。
「まあ、少し気になるな」
「じゃあ、明日は楽しみにしててね!」
力こぶを作るように腕を掲げて、にっかり笑う稔川。うん、ちょっと待て。待つんだ。母からのものでさえ恥ずかしいと断っている弁当を、同級生の女子からもらう。この状況、もしかしたら、とても恥ずかしいのではないだろうか。
ふと冷静になり、……いや、恥ずかしくなった俺には、カツサンドのソースも、カレーパンのスパイスも、満足に堪能することができなかった。
宣言通り、翌日の稔川は弁当を二つこさえてきた。そしてやはり小さな不幸の数々に見舞われながら通学をし、昼休みを迎えた。
「稔川ってさ、かなり不幸だよな」
俺の分の弁当を受け取りながら、不躾に指摘をする。ここにあっては、照れ隠しの意味も大きい。
「え、そう? 私はいつも幸せだよ!」
曇りのない笑顔で答えてみせる稔川に、俺は少し面食らってしまった。彩りの良い弁当のおかずが、稔川の笑顔をより華々しくさせる。
この数日を見ていると確かに、俺のように溜息をついたりといった、あからさまに不幸そうな様相は、見た覚えがなかった。愚痴の一つもなく、身に降りかかる不幸のすべてを、受け入れている。
どこか不思議なその在り方に、稔川への興味が高まるのを感じた。
「それよりさ、食べてみてよ」
促され、自信作と太鼓判を押す卵焼きを口に運んでみると、鰹と昆布の合わせ出汁による豊かな風味が広がり、たまり醤油のコクも合わさりしっかりと味付けされていながら、みりんや砂糖によるまろやかな甘味が後を引くという、絶妙な味付けだった。これは確かに、……美味しい。
稔川をはねのけることもできず……いや、あえてはねのける理由もなく、俺は稔川との通学や昼食を、ずるずると続けていった。
隣で稔川を見ていて、気づいたことがある。稔川は、容易に見過ごしてしまいそうな、小さなことによく気づくのだ。
たとえば、サクラソウの小さく白い花。歩道にどっしり居座る猫の、今日の機嫌。いつもすれ違うおばあさんの、ささやかなオシャレ。また、俺から見るのならば、稔川の弁当の具の、ちょっとしたアレンジなど。
そういった、気づくと嬉しくなってしまうような、素敵でありながら、小さくて見つけづらいことに、稔川はよく気づく。そして、見つけては、幸せそうに笑うのである。
一連の様子は、確かに、幸福と形容して間違いない。おそらく稔川は、不幸なのではなく、人並み外れて不運なだけなのだ。
そんな日々が続いていたが、ある日のこと、稔川が珍しく学校を休んだ。西町公園で待っていたところ、スマホに『風邪を引いた』とメッセージの通知があった。
俺は『おとなしく寝てろバカ』と返すと、すぐさま『バカとはなんだ、バーカ』と返信があった。いや、寝ていてくれ、本当に。バカか。
久々に一人で食べる昼食は、以前と何ら変わらないはずなのに、どこか味気なく感じた。
長い長い授業が終わり、ようやく放課を迎える。家は近所のはずだし、少し足を伸ばして、見舞いの一つにでも行ってやるか、と思い、住所を尋ねた。西町公園を挟んで、俺の家からちょうど反対方向に五分程度、といった場所だった。
「よし、行くか」
小さく呟いて、帰路に就く。すると不思議なことに、犬に追いかけられたり、信号がことごとく俺の目の前で赤になるなど、小さな不運が続いた。
しかし、犬に追いかけられた結果、普段歩かない道を歩き、手入れの行き届いた小奇麗な公園を見つけることができた。信号待ちの間にも、手を繋いで家へと帰る親子連れを見て、少し心が温まった。……そもそも、稔川ほどには不運なことが起こっておらず、運が悪いとは言えども、比較的マシである。
少しずつではあるが、素敵なことを発見できるようになっている俺は、きっと、幸福にもなれる。
「おぉ……ぼっちゃん、わざわざすまないねぇ」
「婆さんかよ」
思わず笑ってしまった。
学校を休んだほどなので、具合の悪そうな稔川を想像していたが、どうやら稔川の体調は、随分と安定しているようだった。少なくとも、老婆のようなしわがれ声を出しておどけてみせる余裕はあるらしい。
呼び鈴を鳴らしたときには稔川の母親が顔を出したため、思わず容態を心配したものの、今日も稔川の顔を見ることができたことを、嬉しく感じた。無事に、とは言えないかもしれないが。
「いやあ、ホントありがとね」
「気にすんな」
普段通り、にっかり笑ってみせる稔川だったが、よく見れば、どこか力なく、弱々しい笑顔に感じる。あまり長居をせずに、無理をさせないようにするのが良いだろう。
「じゃあな。早く治してこいよ」
「うん、明日は大丈夫だと思うよ」
稔川と過ごす時間が多くなっていたせいか、玄関先で少し顔を合わせただけで別れることが、寂しく、名残惜しくさえ感じた。
俺の中で、稔川の存在が日に日に大きくなっていく。稔川を見ていると、不幸を自負していた俺でさえ、考え方一つで、幸福になれるのではないかと思わされる。
見舞いを終えて家へと帰ったのちに、別れるのが名残惜しいとはどうしたことだろう、と考えて、俺は一つの結論に至った。
「おはよーさんっ!」
「ああ、おはよう」
翌日の朝になると、稔川は、無事、西町公園へと姿を表した。そして、いつも通りに二人で学校へと向かい、少しだけいつもと違うことを見つけては、喜び合った。この変わらない穏やかな日々が、とても心地よくて、もどかしい。
「退屈だったよう、家でじっとしてるの」
「そうだろうなぁ」
稔川のように、歩いているだけで次々と発見できる人間にとって、家でただじっとしているということは、確かに苦痛だろうと思う。発見するべき変化が、屋内においては乏しいからだ。
「だからお見舞い来てくれて嬉しかったよ、ホント」
「そりゃどうも」
程なくして、校舎が見えてきた。俺は深い呼吸を二度、三度と繰り返して、逸る気持ちを無理やりに抑える。何者かに心臓を掴まれているような息苦しさ。苦しいと同時に、どこか甘い期待のこもった、判然としない気持ち。それらに気付かないふりをしながら、俺は、稔川へと切り出した。
「伝えたいことがあるんだ、稔川。困るかもしれないが、不幸だと思って諦めてくれ」
稔川は、いったい何だろう、といった様子で、俺が再び口を開くのを待ってくれている。
「稔川。……俺と、付き合ってくれ」
俺の言葉を聞いた稔川は、にっかりと笑って、言ったのだった。
「私は、幸せだよ!」