人間A(自分)と人間B(他人)が、全く同じ速度で同時に、同様に壁にぶつかったとする(どんな仮定だよ)。
このときAは一般的な感覚を持っていて、「痛い」と感じ「痛い」と言ったとする。
そんでもってBも同様に「痛い」と言ったが、
AからすればBの「痛い」がAの感じる「痛い」と同じかどうかは確かめようが無い。
Bの「痛い」は、Aの感覚からすると「冷たい」かも「痒い」かも「美味しい」かもわからない。
……こういう認識で良いんだろうかな、クオリア……の、『逆転クオリア』って。
認識とか感覚とかそういったものを、ある種のフィルターとして置き換える。
自分と現象があって、その間に現象を感覚に変換するフィルターがある。
自分(内的世界) ・ 【フィルター(クオリア?)】 ・ 現象(外的世界)
だから、同じ現象について誰もが同じ感覚を抱くとは限らない。
それに同じ感覚を抱いていたとしても、Aの言うものとBの言うものが本質的に一致するとは限らない。
大事なことだから二度言いました。他人がどう感じているかなんてわからないっ。
物理的だったりなんだりの括りでは(少なくとも現代では)解明できない、
「どうしてこう感じさせるのだろう?」という本質の部分。
私のPSPは黒い。それはあの波長の光がどうたらこうたらだけど、じゃあなんで黒いなーと感じるのよ?
感覚そのものについて、クオリアという名称を用いる、と。こんな感じなのだろうか。
だったら私は私であるという感覚には「私だ」というクオリアとかがあったりするのだろうか。
あと逆転クオリアが真であった場合、現象とクオリアに直接的な関係はないとは言えないかなあ。
リンゴが「赤い」とか「青い」とか色んなクオリアを備えている……そんな状況ってあるの?
観測者によってクオリアは形を変えるのであって、
クオリアは現象ではなく観測者に固有のものなのではないか。なんか猫箱的。
ちなみに私は、クオリアの存在そのものについては異議を唱えるつもりはないです。
まあ……いまのところ多分に拡大解釈してる気もしますが、
科学が全てを説明しきれるとは思えないし。悪魔の証明です。否定しきる材料もないし。
常識を疑うのは大切ですが、んー……クオリアは信じたいんですよね。感情を挟みます。
多くのこと、特に感覚や内面的なモノって適切には名状しがたいし。
何より、唯物論、好きじゃないんです(自我は電気信号がどうたらこうたらっていうのは唯物で合ってる?)
変に難しく考えすぎてる気がして。確かに物理と事物の本質には近いところもあったりするけど……
全てを物理現象に絡めて解釈しようとするなんて、それはそれで傲慢だと思う。
研究している自分の事を観測し始めたら、気が狂いそう。
とりあえずもうちょっと情報を取り入れて考えてきますっ
稚拙な吐息で炙られても、この子のために。
終わりや終わり! 終了!!
書いた人: 久世うりう (kuzeuriu) お問い合わせ