アカデミックな解釈はその道の人にお任せして、
思ったままを書き連ねますね。
■こども展
特に「この絵見よう!」というのはなく、
同じ『こども』をテーマにした作品同士の
表現方法の差異、みたいなところに着眼して観ていました。
そうしてじっくり見てみて、やはり主題が一番大事なのだな、と思いました。
背景や構図・技法等は必ずしも重要なわけではないように感じます。
『こどもそのもの』を描くか『こどものいる風景』を描くかで、
表現のしかたが違っているように見えました。
前者は明度や彩度の違いでこどもを強調するように描き、
こども以外の要素はひかえめです。
後者は絵の中にこどもが溶け込んでいて、
背景等に存在する小物などの要素が微細に書き込まれている傾向がありました。
一度に目に入る情報量を調節するよう考えて描かれているように感じました。
たとえば、黒っぽい背景に白い少女、で白い少女を引き立てつつ、
黒っぽい背景をよく見ると模様や小物が描きこまれている。
そんなわかりやすさと奥深さを両立させたような、スマートな絵もありました。よ。
また、画家は何を思ってその絵を描いたのか。
なにを描く契機としていて、要素の配置にはどんな意図があるのか。
そういった『画家の内面』を探るように鑑賞すると、
絵はまるでパズルのようだな、と感じました。
絵を見るとき、なんとなーく没頭して観たくなるので、可能であれば
平日などの人が少ないタイミングを狙い、ゆっくりと周るのが良いのかもしれません。
ネタバレ感想です。
えっちな視線で見ると、
ゆれるおしりかわいいですねとか、
きわどい服装たっぷりでエキサイティングですねとか、
そういうことを言えなくもないんですけれど、
あえて真面目に感想を書きます。
このお話をあっさり要約すると、母親の趣味/仕事である写真のために
ヌードモデルになった少女の、心の機微を描いたお話である、と言えます。
娘ヴィオレッタは、はじめは至って普通の女の子でした。
母アンナは曾祖母と顔を合わせるたび口論をしていて、家を空けがちでした。
モデルを始める動機も、その母と「一緒にいられる」「褒めてくれる」程度の、
歳相応でいじらしいものでした。
歳相応、と言ったものの、ヴィオレッタ自身は
歳相応の感性を終始持ち合わせていました。
だからこそ、理想と現実のギャップに苦しむことになった、とも言えます。
モデルを続けていくうち、モデルとしてのヴィオレッタと
少女としてのヴィオレッタが乖離し、対立し、葛藤します。
モデルとして称賛を浴びる一方で、
普通になりたい、ヌードモデルをやめたいと願うものの、
ヴィオレッタにとって自身が評価される行動というのは
体を見せるという表現です。
モデルを始めてからのヴィオレッタは、表現すればするほどに、
いわゆる『普通』からかけ離れていきます。
ヴィオレッタはあくまで『普通のこども』でいたかったし、
『普通の親子』でいたかったのです。
芸術だとか名声だとか、そんなものはどうでもいいのです。
それを踏まえると、始めて母のアトリエに入る際の
「ローラースケートを脱ぐ」という行為が、ひどく暗示的に感じます。
それは『普通の少女』との決別の瞬間でした。
母から娘に受け継がれてしまう、悲劇・狂気の連鎖も描かれています。
母が「自分は芸術家だ、凡人とは違う」という
妄執に囚われていたことこそが悲劇の始まりであるし、
母親が何者かの影に追われていたことと同じように、
その母親に追われ、逃げ続けるヴィオレッタの生涯が示唆されます。
劇中に「娘をヌードモデルに仕立てて撮影することは
母アンナの不器用な愛情表現であった」という意味合いのセリフがありますが、
それもまた、一つの真実であるとは思います。
ただ、不器用すぎました。「度を越してしまっていた」のです。
母もおそらくは「普通ではない」体験をしてしまっており、
それに納得するべく「自分は普通ではない」と思い込むに至った、
そんな経緯が暗に示されています。
曾祖母が死んだ際の、一連のやりとりが母の人となりをよく表していると思います。(以下、うろおぼえ)
娘「バアバは天国に行けた?」
母「もちろん」
娘「バアバの聖像画は?」
母「捨てたわ。ママは無宗教だから」
娘「……ひねくれ者」
終始生々しくて、えぐみがあって、いたたまれない気持ちになって、
その一方で未成熟さと妖艶さの対比に圧倒される。
ヴィオレッタの両極性と同様に、観る側にも両極性が求められるような……そんな映画でした。
大人としての自分と、子供としての自分。繊細です。
機会があればもう一度観たい感あるのですが、
この限られた期間内にもう一度劇場には行けない気がしています。
いつまでやってるのかな。Blu-rayとか発売しますかねー……
終わりや終わり! 終了!!
書いた人: 久世うりう (kuzeuriu) お問い合わせ