悪い結果というのは、回避できないものでしょうか。
多くの場合、何かの行動をするべく計画を立てるときには、
良い結果になることを信じて計画すると思います。
それにも関わらず、時として悪い結果を引き寄せることがあります。
そうなってしまう前に、悪い結果に至る予兆を認識し、
針路を修正していくのが回避する方法にあたると思います。
では、その凶兆は必ず認識できるものなのか。
そして、始めから「修正後の針路」にあたる計画で進められないのか。
……結論としては、やはり無理なのでしょうね。
認知バイアスがそれにあたるのかわかりませんが、
そもそも気づけないというケース以上に、
目撃しても些事だと切り捨ててしまうケースが多いでしょう。
問題だと認識された事柄については対策が取られますが、
問題だと認識されなければ、対策のしようもありません。
考案する際に漏れがなければ全てを取り込んだ行動計画にできるかもしれませんが、
現実的にはインプットされるべき情報を取りこぼしたり、
考慮しきる時間がないために、いわゆる「不測の事態」となるでしょう。
情報を漏れなく取り込んで、漏れなく対策したときに
その計画は滞りなく進行される、ということになると思います。
チェックリストなどによる機械的な判断ではなく、
感覚などによる曖昧な判断でもない、適切な判断。
熟練者の勘のような、経験則に基づいた適切としか言えない判断。
……これを普遍的に担えるようになるのは、人よりも機械が先かもしれませんね。
膨大な情報を蓄積し、蓄積した情報を全て精査し、回答を導き出す。
熟練者のような的確かつ悪い結果に至る予兆を認識して軌道修正する切な手際にはならないでしょうが、
それを処理能力で補ってしまえるでしょう。
人にやらせる場合には、蓄積や精査といった行動において
実施できる処理の数が著しく制限されます。
そうなると、過去に蓄積した情報を元にしつつ、
新たな情報を的確に仕入れなければなりません。
その「的確さ」は、誰もが確実に履修できるものではないと考えます。
ただ、そういった役割を持てる人がいなければ
機械が判断をくだせたとしてもその評価ができないので、
教育や学習と呼ばれる要点のインプットを人に対して実施することも重要と思います。
くどくどと書きましたが、悪い結果を回避することについては
「100%ではないものの高い精度で可能」で、そのための教育は
もっと真面目に取り組むべきなのかなぁ、と思います。
面白みのない結論。
終わりや終わり! 終了!!
書いた人: 久世うりう (kuzeuriu) お問い合わせ